サドさんのK2ブログ

シナリオライター、茶渡エイジのブログです。タイトルのK2はケツと読みます。

この本がなければ僕は生まれていなかったかもしれない本。柴田翔「されどわれらが日々―」

 最近よく思うのは、今って60年代みたいだよね、ということ。

 その正否はおいといて、今って60年代だよね、と思うことが多い。学生デモはあったし、コンクリート・レボルティオも2期やるし、一周回ってゴレンジャーの造形がめっちゃ格好いいと感じるし、ビートルズが復活するかどうかはおいといて、なんやかんや60年代がリバイバルしてる感じがあるね、ということ。

 ※ゴレンジャーは70年代の作品です。

 

 それ以上にぼくが60年代に惹かれるのは、今20代の若者がおかれている状況が、60年代の閉塞にそっくりじゃないかと感じるからだ。あの頃とはまた別のベクトルで若者の多くはたいへんに衆愚化されてしまっているのはたいそう嘆かわしいことである。

 

 柴田翔の「されどわれらが日々―」を母親が購入したので、読んだ。

 

 そうなのだ。私の幸や不幸は問題ではない。節子の幸や不幸は問題ではない。人は生きたということに満足すべきなのだ。人は、自分の世代から抜け出ようと試みることさえできるのだから。

 節子のそれが成功するかどうか、それは判らない。節子はあまりに感じやすく、あまりに生を愛しすぎる。が、成否の如何にかかわらず、私は、いや私たちは、そういう節子をもったことを、私たちの誇りとするだろう。
 やがて、私たちが本当に年老いた時、若い人たちがきくかも知れない、あなた方の頃はどうだったのかと。その時私たちは答えるだろう。私たちの頃にも同じような困難があった。もちろん時代が違うから違う困難ではあったけれども、困難があるという点では同じだった。そして、私たちはそれと馴れ合って、こうして老いてきた。だが、私たちの中にも、時代の困難から抜け出し、新しい生活へ勇敢に進み出そうとした人がいたのだと。そして、その答えをきいた若い人たちの中の誰か一人が、そういうことが昔もあった以上、今われわれにもそうした勇気を持つことは許されていると考えるとしたら、そこまで老いて行った私たちの生にも、それなりの意味があったと言えるのかも知れない。(p217-218)

 

 1964年に出版され、昭和39年の芥川賞を受賞した作品。

 学生運動後の若者を描いた青春群像劇が、まさに今の(苦境に立たされる)若者が読んで共感できる(とくに前半の佐野の手紙とかな!)ので、やはりぼくの肌感覚の60年代リバイバルは正しいのだと信じさせてくれた。

 いや、そのへん個人の感覚だし、今「見えない何か」と闘っていない人にはおそらくこの感覚はないだろうけど。

 話は変わるけど、なぜ母親がこの本を買ったのか。

 当時、母の高校の教師がこの本を「われらが世代の書」的に紹介してくれたそうだ。中大卒の、たいへん面白く人気のある先生だったらしく、母親もその影響でこの本を読んだ。そして数年経ち、母は18歳離れた父と会うのだが、父もまた中央大学の法学部卒であり、その先生と同じ大学であることが歳の差を乗り越えるきっかけとなったのである。つまり、この本がなければぼくが生まれることもなかった。あー、だから60年代に親近感があるのかもしれませんな。

 最後に、とても有意義な読書だったことを記しつつ、父親が教えてくれたあの頃の三大タイトル「されどわれらが日々―」「パルタイ」あと一冊が何だったのか思い出せないことも付記しておきます。いや、父にもう一度訊いて来ればいいんだけども。

 ではまた。

 

されどわれらが日々ー (1964年)

されどわれらが日々ー (1964年)